斯くして鳳皇、柴微垣より


 慕容沖は跪礼こそ崩さねど、しかしその身体をひどく強ばらせていた。
 元来であればその面持ちは柔和な花弁にも比され、その奥に確かな精悍さの始まりをも見出しうる、そのような少年であった。その顔に、いまは深く憂苦が刻まれている。
 広い室内に溜まりこむ漆黒を、幾本もの蝋燭がか細く切り拓いていた。部屋の中央には寝台が鎮座する。その麓には蝋燭番の宦官らが土下座し、ヒキガエルのごとき背中を浮かび上がらせている。
「天王、お戯れを仰いませぬよう」
 震える拱手で訴える。だが繻子の向こう、寝台に佇まう天王、苻堅は動じない。返しはただの一言、「くどい」である。
 唇を噛み、俯く。
 もとより奴婢にも等しい身の上である。抗弁だけで死を賜ることすらあり得た。ならば、天王がただ却下のみを宣べたことは僥倖、と呼ぶべきなのだろうか。
「鳳皇……」
 寝台より姉、无考が、か細い声で慕容沖の幼名を呼ぶ。端々に潜む、その吐息が荒い。つい先程まで苻堅に激しくかき抱かれていたのだ、無理なからぬことではあった。
 顔を上げれば、苻堅の手が无考へと向かっていた。寵愛するための動きではない。喉元を締め上げるためのものだ。慌てて立ち、制しようと思った。だが声は出ない。その代わり、息の塊を吐き出していた。
 首を振る。
 意を決し、帯を解く。
 上着の下には、薄衣一枚すら纏っていない。なのでそれさえ脱いでしまえば、もう全裸となる。
 ほう、と苻堅が声を上げた。
 物心つく前から馬と親しみ、草原を駆け抜けていた身の上である。余分な肉はすべて風が削ぎ落とした。慕容沖にとっては当たり前のことであったが、どうやら中原の緩い風にしか曝されてこなかった者々には、この体つきがたいそう珍しいらしい。
「失礼致します」
 繻子をめくり、寝台に上る。膝を乗せれば、たちまち膝が深く沈み込む。どれだけの羽毛がつぎ込まれているのか。故地でもこれだけの布団には包まった覚えが無い。
 苻堅と姉、二人の間には赤い染みがあった。
 天王と、その妃が迎えた初夜。どちらにとってもただ事でない筈の場に、何故か自分がいる。これは一体、なんの冗談だというのか。
 いや、冗談であればまだ良い。つい今し方まで、姉が陵辱される様をまざと見せつけられていたのだ。せめて悪夢であってくれと、空しきを承知で願わずにはおれなかった。
 苻堅に相対すると正座し、深々と頭を下げた。大きな手が乗る。頭から耳、首、そして肩へ。先程の有無を言わさぬ言葉とはまるで違う、宝玉を慈しむかのような、柔らかな動きであった。
「背」
 言いつけに従い、頭は上げぬまま、苻堅に尻を向ける。その手が腰周りを掴むと、わずかに力がこもった。
「蜜」
 次いでの声は、姉に向けてのものであったようだ。軽い衣擦れの音が寄ってくると、小さな手がおずと慕容沖の臀部に触れてきた。ぬる、とした感触もある。苻堅の言う、蜜であろう。
 始め蜜は臀部に広く塗りつけられた。そこから中心に寄る。その動きは、飽くまで固い。
 無体なことを、どこか他人ごとのように、慕容沖は思った。破瓜の傷みも引き切らぬまま、血を分けた弟の尻と向き合わされるなど、いかなる辱めであることだろう。
 固い手指はやがて、慕容沖の菊門にまで伸びる。一点に向けて集う襞、その一つ一つの奥にまで蜜をすり込むかのように、丹念に、細やかに、指が動く。――誰が責められようか。この異様きわまりない局面において、慕容沖が微かな悦を得てしまったことを。
 覚えず、声が漏れた。
 蜜は菊門にのみ留まるわけでもない。ぐい、と奥にまで侵入する。始めこそ固く拒もうとしたが、その細い指を一気に根元にまで埋め込まれてしまえば、もはやどうしようもない。
 後背に受ける姉よりの熱が、胸元にまで上ってきた。堪らず、息を吐く。まだ満足に毛も生え揃わぬ陰茎が、これ以上無い剛直を示した。
 膝立ちを維持することすら覚束ぬ。膝が笑う。腰を姉の指に擦りつけそうになる。
 訥々と蠢く柳指が慕容沖の内側をなぞれば、腰から肩にかけて、痺れにも似た感覚が走る。
 何と言う無様な有様だろう。大燕国の正統なる血統を継ぐ者として、他者に見せてはならぬ痴態である。しかもそれを見るのが、仇敵とも呼ぶべき、苻堅。だが、いまの慕容沖に苻堅を殺すだけの力はない。
「好し」
 腰に掛かる手を制することも許されない。
 菊門に当たる、苻堅の陰茎を止めることも。
 また、その侵入を阻むことも。
「――くっ!」
 体を、縦に割かれたかのようだった。
 苻堅は、奥まで突き入れるといったん止まり、ゆっくりと引く。そして今度は、ゆっくりと分け入ってくる。
 進まれるにせよ、退かれるにせよ、伴うのはひたすら激痛である。こめかみを脂汗が伝った。胸が詰まり、満足な呼吸も能わずい
る。
 腹に、腰に、不自然なほどの力が入っているのがわかる。太腿も吊りそうだ。だが苻堅に、斟酌の様子は一切ない。それどころか、徐々にその腰遣いは激しくなってゆく。
 九浅一深もあったものではない。ひたすら乱暴に、まるで慕容沖の臓腑すべてをえぐり出さんとでもするかのように、突き込んで来る。
「なるほど、慕容、龍の器よ」
 呟きとともに、動きはさらに激しくなった。
 そして、果てる。腹の中をすべて満たされたのではないか、と訝りたくなるほどの精が、慕容沖に解き放たれた。
 苻堅が離れる。体の緊張という緊張が、一挙の内に解けた。
 布団に倒れ込む。ようやく呼吸を取り戻せた気がした。
 姉より杯が差し出される。酒である。故地のそれよりも、だいぶ、きつい。喉が焼けるかのようだ。だが枯れ果てたこの折、贅沢は言っていられない。
「无考、沖。佳き心地であった」
 苻堅が同じ酒を一気に呷る。そして早々と上着を着、帯を締める。
「余は閨を外す。汝らは良く汗を拭き、身体を冷やさぬようにせよ」
 苻堅の物言いは、先程までとは打って変わって、いたく柔和なものとなっていた。姉が「畏れ多く御座います」と平伏の上告げる。苻堅は寝台より降り、退出した。
 菊門の痛みを堪えつつ、慕容沖は何とか身体を起こす。主が去ったあとも、无考は頭を垂れたままでいた。
 その肩が、細かく震えていた。
「――姉上」
 その胸には、如何なる思いが渦巻いていることだろう。だが、それを口にすることは許されぬ。宦官どもは路傍の石だ。しかしながら、物言う石である。
「今は、命あるを喜びましょう」
 か細き肩に、手を掛ける。
「鳳雛は、羽ばたく時を待ちまする」
 たたずまう闇に、姉の嗚咽が染みこんでゆく。宦官どものわずかに荒くなった呼吸が、妙に耳障りに響く。
 ――力が、要る。
 慕容沖は、虚空を睨んだ。


  〇


 慕容沖は燕国の皇子、であった。
 のちに五胡十六国と呼ばれる時代の中葉。三國志として知られる魏呉蜀三国の鼎立より、およそ二百年後のことである。
 三國志は、魏より皇統を簒奪した晋が天下を統一することで終わった。しかし、かの国の権力基盤はきわめて脆弱なものであった。統一後間もなく、皇族が権力を求め、争い合った。八王の乱と言う。八人の皇族が、互いに殺し合ったのである。これにより、晋帝国の武威は大いに阻喪した。それを好機と見たのが、五胡。即ち匈奴、羯、氐、鮮卑、羌と呼ばれた諸部族であった。
 かれらは大挙して中原に進攻、都・長安にて殺戮の限りを尽くした。そのため、晋の首脳らはほうほうの態で南に逃れねばならなかった。このときの惨劇は永嘉の乱、と呼ばれている。五胡十六国時代の端緒である。
 晋の貴族らは、亡命先の旧呉勢力圏にて、臨時の政府を建てた。以降捲土重来を期し、幾度もの北伐の軍を起こすことになる。
 一方中原では、晋を追い落とした五胡が覇権を巡り争っていた。はじめ匈奴が、次いで羯が強勢を誇るも、共に優れた指導者を失った途端に崩壊。そしてこの頃、氐には苻堅、鮮卑には慕容儁と、それぞれに優れた指導者が現れていた。両族は、次なる中原の覇者候補として成長する。これが秦、そして燕である。
 英主の元で勢力を拡大した二国と、あわよくばその相克を衝き、中原を奪回せんと目論む晋。かくて中華に、改めて晋秦燕三国の鼎立が成立した。
 慕容沖は、燕都・鄴にて、慕容儁の第八男として生を受けた。早くより文武に才を示し、またその容貌の甚だ秀麗たること余人を絶していた、と言う。何せその幼名が鳳皇である。慕容沖を得たこと、そのものが鮮卑慕容部の瑞祥であった、とすら宮中では見做されていたようである。
 だが大いなる燕国の命運は、慕容儁の死によって急転する。大小の揺乱を経て、やがて秦による併呑の憂き目に遭うのである。それは秦王・苻堅の英邁さ故であり、また、後に残された燕人たちの愚かしさ故でもあった。
 慕容儁には幾人かの弟がいた。中でも、特に二人の勇名が鳴り響いていた。
 一人は慕容恪。一人は慕容垂。
 二人は慕容儁の息子、慕容暐を次なる皇帝として盛り立てた。大帥・慕容恪が描いた戦の形を、驍勇・慕容垂が実現する。両名の活躍により燕は、ひとときは慕容儁在世時以上の強勢すらものとした。だが間もなく慕容恪も病死。また慕容恪という大きな後ろ盾を失った慕容垂は、その図抜けた武勲が危険視され、排除されかける。
 結果、身を危ぶんだ慕容垂は秦に出奔。燕の誇った鋭刃が、内訌を契機に、今度はその喉元を狙うに至ったのである。
 この時、慕容沖は十二歳。いくらその才を愛されたとはいえ、いまだ一軍を率いるほどの大権は実質持ち合わせていなかった。大挙して押し寄せてきた秦軍が鄴の都を攻め滅ぼすさまを、ただ眺めることしか許されなかった。
 燕は滅び、慕容沖は秦の都・長安へと、兄弟もろとも連行された。
 そして姉とともに、苻堅の閨へと召し出されたのである。
 

 〇


 あてがわれた部屋の窓から、慕容沖は外を見る。
 しとと降る雨を眺め、在りし日のことを思い出す。

 ――雨の日は遠乗りが叶わぬ。鬱々とする。
 だが、悪いことばかりでもない。
 叔父の慕容垂が、このような日には囲碁に付き合ってくれるのだ。
 兄たちでは相手にならぬ。近習たちはどうにも手心を加えてくる。ただ一人、慕容垂のみが慕容沖の全力を受け止め、撥ねのけてくる。敗北は悔しい。一方で喜ばしくもある。おれは、まだまだ強くなれる。
「また打ち筋が鋭くなったな、鳳皇。我もうかうかしておれぬ」
 盤上の石の数のみで言えば一手、二手の差。その若干が遠い。渾身の一手が、無数の策の前に絡め取られたように思えてならぬ。
「光栄です。ですが鳳皇は、いくら手立てを尽くそうとも、叔父上の足元にすら辿り着ける気が致しませぬ」
 盤面を眺める。
 慕容垂は、石を取られることにさほど頓着しない。だが、気付けばあらゆる活路を潰してきている。挽回しようと慌てふためく内に、もう趨勢は決している。諦めるまいぞと妙手を見出そうにも、もうそこには叔父の石がある。
「慕容の将たるもの、勇猛であるは良い」
 慕容垂が空地を指差した。慕容沖がいちど、大きく石を取った箇所だ。
「だが、局面は戦場を作る一部でしかない。将を統べる帥として、常に広く、盤面を見よ」
 慕容垂が、空き地周りの石を示す。逃げの一手と思っていた石が、悉く此方の連絡を絶つための布石となっている。先を読んでいたというわけではない。誘い込まれたのだ。
「精進致しまする」
 思いがけず、ふて腐れた声が出てしまった。「素直なことよ」とまで慕容垂が笑う。
 だがたちまち、その顔が曇った。
「元来であれば、お主にも年頃の遊びを楽しんで貰いたいものだがな。儁大兄の容態も優れぬ今、我ら血族が一丸となり、晋、そして秦に当たらねばならぬ。恪小兄も我も、いつまでも壮健ではおれまい。やがて来るお主らの世に向け、備えは、幾らしてもし足りぬ」
 慕容垂が近習に示し、何枚もの碁盤を持ち寄らせた。
 何事かと訝る間もなく、それらが慕容沖の周囲に配された。
「叔父上、これは?」
「小兄が目の当たりにしておるものだ。帥は一枚の碁盤に注力さえすれば良い。だが、王の扶翼たる大帥は、数多の碁盤に目を配さねばならぬ。王は王のみにて王足るに非ず。お主の兄、暐が皇統を継げば、鳳皇。やがてはお主が、暐と共に、之を負うことになる」
 慕容沖は唾を飲んだ。
「鳳皇には、荷が重く御座います」
 ただ一枚の碁盤すら支配が叶わぬと、容赦なく突き付けてきたは叔父上ではありませぬか。駄々にも似た逆恨みを、険の載った言葉に託つ。それを汲んでか汲まずか、慕容垂が肩に手を乗せてきた。
「なに。今すぐ負え、というわけではない。その荷は小兄も負う。我も負おう。お主が、燕を負うに足る膂力を養えるようにな」

 ――あの時の慕容垂の微笑みは、やさしさと、力強さにあふれていた。

 長安入りして以来、慕容沖は一度も慕容垂と見えることが叶わずにいた。
 それは、どこかで叔父を避けていたからでもあった。
 この期に及んで、どのような顔をして会えようか。片や燕を裏切り、亡国に追い込んだ張本人。片や燕と運命を共にすることすら許されず、あろうことか敵国の君主の寵を受けるに至った、こちらもある意味では裏切り者である。
 かぶりを振る。今更、そう、あまりにも今更なのだ。
「ご神容、麗しからぬご様子ですな」
 背後より、ぬたりと慕容沖に語り来る者があった。
 振り返れば、見ぬ顔でもない。宮中における紅顔の誉れを、一身に浴びていた宦官である。とは言えその目鼻立ちは、慕容沖にはのっぺりとした陶磁器のようにしか見えなかったが。
「甚だしければ、何だ」
「せめて大司馬が荊棘に枕する痛み、我が身にても受け請いたく」
 陶磁器が、歪んだ。真後ろにまで擦り寄って来ると、その手を慕容沖の陰部へと延ばして来る。
 そういう肚か、さしというたる感慨もなく、思う。
 大司馬。燕の国がまだ健在であった頃、慕容沖の肩に乗せられていた官名である。その職掌は燕軍全騎の統帥。無論、ただの名誉職でしかなかった。しかし、故にこそ、おめおめと故国が灰燼と化すのを見送るしかなかった無力を苛んで来る肩書でもある。
「卿は、何を目論んでいる?」
「目論むなどと。衷心より、大司馬の不遇に悲嘆の念を禁じ得ぬので御座います」
 言葉とともに、表情を大袈裟に曇らせる。整った眉をわざとらしく下げ、口を突き出す。発する一言のごと、体がくねくねと揺らぐのが、背中越しに伝わってきた。
「おれは、不遇か」
「中原に冠たる勢いを得た大燕国の皇子が、今や苻堅の寵童の如き扱い。鬱屈を晴らそうにも、大司馬の御身周りには、我々宦官しかおりませぬ。これでは、いつ大司馬の情が暴発するとも知れませぬ。愚臣めが、せめてもの慰みになりますれば、と思い立ちたる次第に御座います」
 慕容沖は、その凍てついていた顔つきを、何とか解きほぐすよう努めた。果たして思い描いたような、端正な笑みを形作れたであろうか。
「そうか。気遣いをさせてしまったようだな」
 腕を解き、身体ごと向きなおる。一度、宦官を軽く抱き締める。縛めを解くと、陶磁器にほんのりと朱が差した。
 宦官の帯を解く。机に手を置かせ、尻を剥き出しとさせる。
 そして、後ろから。
 首に、その帯を巻いた。締める。
「! ――ッぐ!」
 対手は白面の書生、慕容沖は馬上にて日々膂力を培った身の上である。今更その意図に気付いたところで、もはや宦官に逃れるすべは無い。帯を解こうと足掻き、次いで慕容沖の腕に縋りつこうとするが、何もかもが能わぬ。苦悶の呻きを上げ、暴れ、まもなくその肩が、落ちた。
 慕容沖が力を抜くと、死体が机を押し倒した。徳利、茶杯が床に落ち、音を立てて割れる。
「――不快、極まりないな」
 赤い跡の付いた首筋に靴を乗せ、踏み折った。宦官の帯を捨て、着衣の乱れを直す。
 音を聞き、慌てて駆け付けた別の宦官が、死体に驚きの声を上げた。その恐慌を気にも留めず、慕容沖は「そこな残骸を片付けよ」とのみ命じる。もの言いたげなその目つきにも一切取り合わぬ。
 再び、窓から外を見る。
「馬も、矛も持てぬ身の上では、ヒキガエルを潰すのにも一手間だ」
 雨足は、いや増していた。


  〇


 禁裏の豪奢な装飾に彩られた廊を、粗衣に身を包んだ、無頼のごとき男が大股に進む。怒りと焦りとをその顔に浮かべている。その歩速に、他の者が追従能わずにいたことにも気が付かぬ。
 廊の突き当たり、精緻な彫刻と大小の宝玉をふんだんに散らした大扉の前に、ふたりの衛兵が立つ。禁裏の深奥、大秦国の天王を守る最後の牙たればこそ、あらゆる異時に応ずべく鍛練を積んだ勇の者である。その彼らが、男を見るなり動揺をあらわとした。
「王猛様! なぜ斯様な場まで!」
「天王に諫ずべき議あり参じた! 開扉を請う!」
「なりませぬ! 例え丞相たる王猛様とて、例外は御座らぬ!」
「――ええい、埒もない!」
 衛兵の槍が王猛の行く手を阻む。だがその穂先は鈍い。無理なからぬ事であった。向ける相手が丞相、天王を丞くを業とする大名籍なのである。なので王猛はその躊躇を衝き、易々と穂先を払った。扉に辿り着くと、耳をそばだてる。
 声がする。三つ。
 一つは壮年の。一つは少女の。そしていま一つは、少年の。
 それは嬌声のような、はたまた苦悶のような。
「間に合わなんだか」
 王猛は歯噛みすると、扉に背を向けた。そして「役目、大義」と力なく、衛兵に声を掛ける。戸惑いながらも、衛兵は素早く先程までの姿勢に戻った。
「丞相!」
 そこに、ようやく後続が追い付いてきた。
 常であれば、禁裏は帯剣を禁じられる場である。にも関わらずその男は、朝服姿でこそあったものの、腰に剣を佩いていた。
「大将軍。遅かったようだ」
「――左様にございますか」
 衛兵の片割れが、迂闊にも「苻融様まで……?」と洩らした。すぐさまいま一人が咎めの目を飛ばす。
 秦の政事諸事を統括する、丞相。秦軍の総取り纏め役である、大将軍。禁裏はあくまで天王の房事の場である。両人の管轄下となる場ではない。それは両人ともに、重々承知していたはずだ。
 王猛と苻融、ふたりは悄然とした足取りで、もと来た道を引き返した。
「――大将軍。例の歌は耳にしたか?」
「雌雄のツバメ、紫微宮に舞い入れり、ですね」
 苻融の返答を受け、王猛は嘆息した。

  雌雄のツバメ、紫微宮に舞い入れり。
  ひとときは雄が、ひとときは雌が。
  何と華麗に飛び回ろう。
  人の身にては追い切れぬ。
  追い疲れ、足が鈍るとき。
  さあ、その嘴は的を定めようぞ。

 紫微宮とは、禁裏がある長安城・未央宮の異名である。慕容姉弟を囲う天王が、何かの折に両名より牙を剥かれたとて、果たして誰が驚こう――そう、歌われている。
 苻堅が慕容沖、无考を閨へと招じた頃より、誰からとも知れず歌われ始めた戯歌であった。人々は笑いながらそれを歌う。だが王猛と苻融は、それを聞くたび眉を顰めずにはおれなかった。
「全く。鮮卑どものことを、実にうまく歌ってくれたものだ」
「誠に。獰猛なツバメもあったものです」
 廊を行く王猛の足取りが、やや速まる。
「百歩譲って、慕容无考は良かろう。天王の示す六族和合は、むしろ秦の天下統一後に重要な役割を果たし得る。だが、慕容沖への寵は災いしか招くまい。慕容の血族は竜虎の如き存在。一朝一夕で天王の威光に心服するとは、到底思えぬ」
「それは慕容沖のみを見てのご懸念ではありませぬな」
 幾分かの諧謔の気風を交えての言辞に、機先を制された王猛は憾むような目で苻融を見る。対する苻融はどこ吹く風、と言った装いである。腹立ち紛れにふん、と王猛は鼻を鳴らした。
「そうとも。最も警戒すべきは慕容垂よ。慕容儁と言う檻、慕容恪と言う鎖があり、初めて奴めは燕の刃足り得た。縛め無き今、奴めを飼うのには、臓腑を虎の眼前に曝け出す心地しかせん」
 二人は禁裏を後にし、軍議室のある承明殿に向かった。軍議室の傍らに、侍室と呼ばれる小部屋がある。その中央に置かれた机上には、地図。そこには大きく秦の文字が躍り、その隣では、燕の文字が真新しい塗抹で消されている。
 だが、秦の周囲に国名はまだ多く残されていた。高句麗、扶余、代、涼、吐谷渾、そして晋。地図上に残る汚れは、燕の塗抹の下さえ除けば晋が圧倒的に多く、次いで代、涼である。
 地図を見ながら、王猛が咳込んだ。
「丞相、ご容色が優れぬようですが?」
「なに、大事ない」
 言葉尻は、いささか弱い。が、王猛に言い切られてしまえば、苻融とてそれ以上の追及は叶わぬ。しばしの逡巡を示した末、苻融も王猛に倣い、地図に目を落とした。
「天王の覇道は、いまだ遠い。そのさ中にあって慕容垂と慕容沖とが繋がれば、一挙に慕容再興の気運も高まろう。この長安にて斯様な事態を招けば、もはや覇道どころではあるまい。何としてでも、両名を引き離しておかねばならん」
 再び王猛が咳込んだ。
 時節は、間もなく冬を迎える。
 侍室にも、寒さは容赦なく浸み入っていた。


  〇


「睦み合え」
「――は?」
 既に苻堅は全裸でいた。
 慕容沖の隣には无考がいる。初夜以外では初めてのことであった。幾度となく呼び出しはあったが、その折は常に余人なく、ただ苻堅に貫かれるのみであった。
 苻堅の言葉を理解できずにいた――振りを、した。いつか命じられる事もあるだろう、と思っていた。だが今は、その見立てを示すことこそが愚挙である。
 横目にて姉を見る。固まっている。
 一度目を伏せた。誰にも、この憤怒を見られてはならぬ。
 苻堅よりの寵を得て以来、慕容沖の待遇は虜囚のそれを脱し得た。行き来を許された箇所でさえあれば、何をするも咎められぬ。書にも事欠かず、その気になればいくらでも学びを得ることも叶った。
 だが、女がいない。
 慕容沖とてひとかどの男子である。苻堅に貫かれたとて、女への欲が失われたわけではない。だと言うのに、側仕えはすべて宦官であった。かの白面を思い出すまでもない。もとより宦官の尻には、汚らしさしか覚えられぬ。
 逼塞の日々、その起こりに、男女の交わりを突き付けられたのだ。果たして日夜、姉と苻堅の艶姿が慕容沖を苛んだ。或いは妄想の苻堅を、慕容沖が取って代わりもした。手淫には、常に嫌悪と懊悩が付きまとった。
「此度は、いかなるお戯れに御座いましょうか」
 顔を上げれば、苻堅の紫瞳が慕容沖を射抜いてくる。
「身中に、龍が在る」
 苻堅が自らの胸を示す。
「日夜吠えるのだ。解放せよ、と。慕容の皇統を引く汝らは、龍の器である。だが、足りなんだ。故に、時を待った。今宵の汝らは陽の極、陰の極である。易に曰く、陽三爻にて乾、陰三爻にて坤。和合により地天混交し、泰の卦を生ず。斯くして汝らは、我が龍を受け容れるに足る器と化す」
 何を言っているかは、皆目見当がつかぬ。
 わかるのは、徒に戯言を垂れ流すつもりの顔ではない、と言うこと。だがその虚真に何の意味があろう。詰まる所、弄びたいのだ。目の前の、この男は。自らが滅ぼした国の遺児を蹂躙する事で、己が至高たるの証としたいのだ。
 改めて、頭を下げた。
「御聖望、感服の到りに御座います。愚人の不明に恥じ入るばかりです」
 慣れぬ口上は、思った以上の棒読みとなったことだろう。それでいい。このひとときの憤激さえ悟られなければ。いま、自分は苻堅の掌上で転がされ、姉とともに戯れるツバメの雛でなければならぬ。
 面を上げ、姉と向き合う。
 しばし離れている間に、ずいぶんと女になったものだ、と思う。燕の宮中にも宮女はいた。幾人かを抱いたこともある。だから、それなりに女と言うものは知っているつもりでいた。
 だが、違う。
 禁忌のゆえだろうか。あるいは積み上げた妄想の果ての虚像と結びついたからか。それとも姉が、苻堅の手によって、女とさせられたからか。
 すぐにでも貪り付きたい。止めどなき欲望が持ち上がり、それが間を置かずに己の矜持を蝕む。歯を食いしばる。おぞましき苻堅の企てに乗る、と決めたのは、他ならぬ自分自身である。
「姉上、参ります」
 掻き抱く所作が、自分でも驚くほど乱暴なものになった。
 鼻一杯に、久しく味わうことのなかったふくよかな香りが立ち込める。
 日夜思い描いてきた身体が、腕の内にある。細き腰と、薄き肩。はじめ固まった姉も、やがて躊躇を交えつつ、慕容沖の背に腕を回してきた。
 唇を合わせ、そのまま押し倒す。
 舌を絡め合う。姉の鼻から甘い嘆息が洩れ来た。
 彼我を隔てる衣が煩わしい。唇を離さぬまま帯を解く。薄衣の下に手を差し込む。絹の如き肌触りである。一度吸い付けば、容易に離れること能わぬ。
 慎ましきの盛り上がりを示す、胸上の双丘。頂の碑にまで辿り着くと、姉の身体が、僅かに跳ねた。
 矢も楯も堪らぬ。そのまま、慕容沖の手は秘所にまで伸びる。既に蜜が溢れていた。驚き、手を引く。
 唇を離し、姉の顔を見る。大いに濡れそぼった瞳、紅潮した頬。慕容沖の手がもたらしたものでないことは明らかだ。いったい、苻堅は姉にいかなる方術を施したというのか。
「後生です、鳳皇」
 无考の手が、慕容沖の陰茎に伸びた。握る。強すぎず、弱すぎず。敢えて言えば、若干強かろうか。人差し指が竿と陰嚢との継ぎ目を薄くなぞる。全身に、寒気にも近しい悦が走る。
「姉――上っ!」
 もはや獣となるしかなかった。逸る気持ちで秘所へと陰茎をあてがう。突き入れると、姉は唯々諾々と、しかし妖艶に絡まりながら、慕容沖を受け容れた。
 そこまでだった。
 ひと突きすら叶わぬ。押し寄せる悦の波は瞬く間に一点へと挙り、大いに、散った。
 信じられぬ量が噴き出た。上手く腰を保つこともできぬ。あえなく无考の胸上に顔を埋め込む。早鐘のごとき拍動は自分のものか、はたまた。
「若きよな」
 苦笑を交じえた、苻堅の呟き。
「それは、それで良い。繋がったままでおれ。若きゆえにこそ、時を置かずに再び高まろう」
 苻堅は慣れた手つきで慕容沖の菊門に蜜を塗り、そして剛き杭を打ち込んで来る。接合より内側にめくれ上がるかのような心地。幾度となく打ち込まれてきた杭である。そこにもはや痛みはない。
「っぐ!」
 菊門より総身に、悦が駆け巡る。
 痺れかけた意識を、どうにか慕容沖は嫌悪と憤怒とで押し留めた。浸ることは許されぬ。ようやく、どのような形であれ、姉との再会を果たしたのだ。この好機を、逃すわけには行かぬ。
 无考の耳の側に、顔を寄せる。
(――姉上、ご返事は嬌声にて)
 んっ、鼻にかかるような、甘い声が漏れた。
 自らの陰茎が、姉の中で早くも硬くなり始めたのを感じる。
 苻堅の突き込みは、やや激しい。幾度かに一回、痛烈に勘所を抉ることがある。その折には、慕容沖も声を漏らしてしまう。長い言葉を喋ることは能わぬ。
(韓延なる者の伝手にて、外と繋ぎが取れました)
 苻堅の動きは、そのまま慕容沖の腰を通じて姉にまで伝わっている。姉の身体が小さく跳ねた。んうっという声は返答か、或いは。
(暐大兄との連絡は叶いませんでしたが、泓小兄とは二、三の文を交わしております)
 う、っん、と、細切れの声が上がる。
 慕容沖を抱きしめる腕に力がこもった。姉からの熱が、苻堅よりの責めが。徐々に慕容沖からも冷静さを奪う。
 ああ、と声が漏れた。
 悦は白きに、そこはかとなしの赤きを交える。その奥に、蒼黒とした陰が横たわっている。悦が高まれば高まるほど、その陰もまた、色濃くなる。
(今は、踏みとどまり下さいませ。この思い上がった氐賊めは、必ずや覆滅して見せまする)
 无考の声が高まった。苻堅の腰の動きも、ますます激しくなった。
 姉上――姉上。
 涙を流しつつ、慕容沖も、頂へと至った。

 寵にて得た禄を元手として勢力を養い、燕室の再興を図る。
 慕容沖の描いた絵図であった。
 だがその志は、果たせずに終わる。王猛、苻融両名の再三の諫言により、慕容沖が未央宮から北部の町、平陽へと遷されたのである。
 ただし苻堅は、諫言に従いこそしたものの、慕容沖との別離を惜しんだ。長安城北西の離宮、阿房宮に十数万本もの竹を植えたのである。竹林は伝説の霊鳥「鳳凰」の住まいとされる。また鳳凰は、竹の実以外は食さぬ、とも言われていた。
 衆人の目からも、阿房における植林の意図は明らかであった。故に長安の人らは、またも歌った。

 ――鳳凰、鳳凰。阿房に止まれ。


 〇


 ここで、王猛、と言うひとのことを語らねばならぬ。
 史書には、劉備にとっての諸葛亮である、と評されている。が、秦と言う国の規模からすれば、曹操にとっての荀彧、荀攸、程昱、郭嘉、賈詡の役割を一手に引き受けた、と評するのが正しいようにも思われる。
 祖先は代々晋に仕えていた。いわゆる、漢人である。漢人であれば漢人の国、晋に帰すべき、とするのが巷間の習いであった。が、王猛はそれを良しとはしなかった。異民族であるか否かを問わず、飽くまで己が仕えるに足る主を求めた。それが苻堅であった。両名の関係は、苻堅が息子らに告げた「王猛の言葉を余の言葉と思い、仕えよ」なる下命がよく表している。
 王猛の施政は、史書の中でも激賞されている。
 人事はいたく公平であり、不遇をかこつ有才のものがあれば大任に抜擢し、また多くの在野の賢人を宮中に推挙した。外にあっては軍備を整え、内においては教育を尊び、農業を振興した。秦の国力増強は、ほぼ王猛の功績である、とすら言われている。
 これだけの大仕事を成し遂げたひとである。当然日々は激務に次ぐ激務であった。朝早くから深夜まで様々な案件に目を通し、指示を下す。その精勤ぶりをして苻堅に感嘆せしめたが、一方でそれは自らの寿命を大きく削ることにも繋がった。
 燕を滅ぼした後、数年足らずのうちに秦は代、涼をも滅ぼした。永嘉の乱以降千々に乱れていた華北の地が、すべて秦の旗の下に収まったのである。だが、王猛はその偉業を見届けることが叶わなかった。華北統一の前年に病を篤くし、薨去。苻堅は大いに涙しつつ叫んだという。
「天は余に四海泰平を望んだのではなかったのか? 何故こうも早く余より王猛を奪うのだ!」
 苻堅をして、そこまで嘆じせしめた王猛。
 その王猛に後事を託されたのが、苻融であった。
 苻堅の腹違いの弟。文武に渡って傑出した才を示し、特に政治民事における判断力は随一であった。王猛が健在であった頃も、秦の運営に関する重大な判断が絡む際には、ほぼ苻融への諮問がなされたほどである。
 すなわち、苻堅がこの両名の進言をよく聞き入れ、実行に移したことが、秦を中原の覇者たるにまで押し上げた原動力であった、と言えよう。

 だが秦の栄華は、晋との、ただの一戦にて瓦解する。
 淝水の戦い。
 華北統一後、苻堅は百万を号する大軍を編成。最後の強敵である晋を征服するため南征した。対する晋は十万にも満たぬ軍勢であったという。いくつかの前哨戦を経て、両軍は淮水(黄河と揚子江との間に流れる川)の支流である、淝水にて激突。この戦にて、あろうことか、秦軍は壊滅した。
 敗北ではない。壊滅である。そしてこの戦役にて、苻融も戦死した。
 この事態を受け、秦の武威に従っていた五胡勢力は次々と離反。中でも強勢を誇ったのが羌族の姚萇、氐族の呂光、そして、慕容垂であった。
 当然、慕容沖も平陽にて反旗を掲げた。だが苻堅以外の秦臣は、慕容沖に最大限の警戒体制を敷いていた。決起後間もなく、秦将・竇衝の強襲を受ける。満足に体制を整えていなかった慕容沖は、ただ敗走するしかなかった。

 王猛、苻融の助力を得、華北の雄として名を馳せた、苻堅。
 その苻堅が、両名の諫止を押し切って強行した事跡が二点ある。
 一つが、晋への進攻。
 一つが、慕容沖の寵愛であった。


 〇


 きらびやかな甲冑に身を包む兄、済北王・慕容泓。再び肉親の勇姿に見えることが叶ったのだ。危うく、涙ぐみそうになる。
 故に慕容沖は、慌ただしく拱手し、頭を垂れた。
「兄上。我ら郎党をお受け入れ下さりましたること、その感謝、深甚に堪えませぬ」
「なに。慕容の瑞祥を迎えられたこと、嬉しく思うておる」
「――瑞祥などと」
 それ以上は、言葉にならぬ。
 大司馬。瑞祥。自分が肩書き通りの働きを出来ていれば、いま慕容沖が拝謁するのは長兄、慕容暐であったろう。この場も、美しくも威容を誇る宮中であったろう。
 慕容泓が拠点としていたのは、華陰と言う街であった。長安より東に、軍馬の行程にて二、三日の距離に位置している。その規模は長安、また燕の都として栄えた鄴とは比ぶべくもない。麾下の士卒が居並ぶこの会堂にしても、華陰県令府を間借りしているに過ぎなかった。
 慕容泓が歩み寄り、肩を抱いてきた。
「戯れよ。そう堅くなるな」
 顔を上げる。笑みがあった。
 謹厳実直、を地で行く兄であった。故地にて共にあった頃も、父より「もう少し、肩の力を抜いても良かろう」と窘められていた程だ。まさかその兄から冗談を聞くことになろうとは。
 敗走の痛手、郎党を背負う重み。ささやかな暇ではあったが、ふと肩が軽くなった気がした。
「忝く御座います」
 頷くと、慕容泓は慕容沖の後ろに目を転じる。
「韓延。此度は、よくぞ我を弟とを巡り合わせてくれた。卿の殊勲は一等である」
「あ、ありがとうございます!」
 慌て畏まった様子で、慕容沖の後ろに控えていた小男、韓延が応じた。
 韓延は、長安にて商家を営む漢人であった。かれはさしたる後ろ盾もなしに、御用商人として宮中に出入りすることが許されていた。その商才については、商いに疎い慕容沖にしてみても、並ならぬものがあるのだろう、と推測できた。
 また慕容沖が平陽に遷された折にも、韓延は速やかに接触を果たし、長安の様子を伝え来た。決起後まもなく竇衝に破られたところで、流亡の身とならずに済んだのも、韓延の尽力によるところが大であった。
「――しかし、この場に陛下をお連れできなかったこと、口惜しく思います」
 韓延がうなだれる。
「気に病むことは無い」と、慕容泓。
「卿は十分な働きをしてくれた。此処に兄上をお連れできなんだは、偏に我の力不足よ」
 慕容沖が脇に退き、韓延の肩を押す。慕容泓と韓延、真正面にて相対する形となる。その背筋が、矢庭に伸びた。
「故にこそ、韓延。卿の助力を、更に請いたく思うのだ」
「と、申しますと?」
「長安を陥し、兄上をお救い申し上げる」
 断乎たる面持ちで、宣言する。
 そして慕容泓は、会堂を睥睨する。
「聞け、旧燕光復の志を同じくする烈士らよ!」
 裂帛の一声が、会堂のざわめきを打ち据える。諸士の目が慕容沖らに集まった。
「此度我らは、新たなる輩を得た! 我が弟にして燕国大司馬、中山王・慕容沖!」
 おお、とどよめきが上がる。
「中山王は余に於ける関雲長である! その勇武と共に、まずは長安に新たなる地歩を築く! しかる後、長安より天下へと号令を掛けようぞ!」
 済北王! 中山王! 大燕! 大燕!
 会堂に壮士らの咆哮が轟いた。
 その熱に、慕容沖は圧される。
 身が震えた。秦よりの解放は、もとより志すところである。今やそれは自分一人のものではない。北の外れにて逼塞を甘んじていた日々を思い出す。往時の鬱屈は、これより武として解き放つためにあったのだ。
 歓待の宴、明日以降の手配。一通りの指示を済ませると、慕容泓は上階の私室に慕容沖を招いた。
 余物が一切置かれぬ、ひときわ狭隘な部屋であった。なるほど、兄の性格通りだな、と思う。
「兄上より、二通の文を頂いている」
 鍵のついた小箱より、手紙を取り出す。拝領し、内容を確かめた。一通は秦への再度の臣従を訴えるもの。恐らくは苻堅に命じられ、認めたものであろう。そして密かに送られてきたというもう一通は、
「――これが、大兄のご覚悟ですか」
 読み終えれば、胸中の愁風を大きく吐き出さずにはおれなかった。

 いよいよ秦の末期が近寄ってきた。長安では怪異の起こらぬ日もなく、誰しもがそれらを秦室の凶兆と見ている。されど余は依然籠中にある。もはや燕の地に還る事は叶わぬであろう。
 余は燕室の宗廟を保つことも能わず、氐賊の狼藉を許した罪人である。今となっては、もはや余の身の存亡を問うは詮無きことである。
 泓よ。燕室の復興をこそ重んずべき勉めとせよ。垂叔父上を相国とし、沖を太宰に任じよ。また泓、其方は大将軍の座に就き、余の代理として燕室を立ち上げよ。余が死したる折には、其方が帝として燕室を率いるべし。

「大兄ともあろうお方が、何を弱気な。これでは、まるで遺言ではありませぬか」
「言うな、鳳皇。秦王の恐ろしきを知るは、誰をこそ擱いても、兄上であろう」
 文を置き、俯く。
 旧燕の帝であった慕容暐の禁固、その厳重さは、慕容泓、慕容沖とは比べものにもならなかった。かの韓延をして接触を果たせなかった事こそが、何よりの証である。
 長大にして壮麗な修辞に彩られた一通目とは違い、二通目はあまりに短く、端的であった。我が死を想定せよ、と筆を走らせた折には、如何なる思いが胸中に去来したことであろうか。
「叔父上は我らが旧都、鄴の奪還に力戦しておられる。敢えて後詰めには向かうまいぞ。叔父上が鄴を復し、我らが兄上をお救い申し上げる。斯くて慕容再興の大業は百日を削り、四海にその神速なるを示すのだ」
 慕容泓が、雄々しき笑みを慕容沖に向ける。
「ふたたび、叔父上の神武と共に戦えるのですね」
 慕容沖も、笑みを返した。
 ――ふと、思い出す事があった。
 華陰入りを目前とした折のこと、道案内を買って出た者よりの、それは密告であった。
 曰く、済北王・慕容泓の裁きは苛斂誅求である。ささやかな過失にて首を失った者は、枚挙に暇がない。我らとて氐賊よりの解放は求むべき事である、だが、その前に些事にて主に殺されるのであれば、隷属の果てに死すことと、どこが違おうか。
 泣きながら訴え掛けてきた者は、高蓋、と名乗った。
 命乞いでも、阿りでもない。あれは、只管郎党を守らんとするための叫びだ。そのようにしか思えぬ。
 次いで、慕容垂のことを思い出す。過日、我が玉の矜持に、瑕を入れた者――何故、唐突に叔父が浮かんだのか。まるで関係のないことの筈ではないか。
 慕容沖は目を伏せ、拱手した。
「大兄の志、我らの結束にて果たしましょう」
 顔を、上げられる気がしなかった。


 〇


「皇太弟、済北王を弑するは、法に照らせば大逆である。然るに華陰に充満する燕臣諸卿の怨嗟を鑑みれば、皇太弟と諸卿、何れが社稷により贊を奉ずるか、を検討せねばならぬのであろう」
 慕容沖は華陰の会堂、つい数日前まで慕容泓が立っていた場所から、居並ぶ臣下に呼びかけた。
「無論、兄を奪われた者として、高蓋に復仇の志を懐かずにおれぬ。しかし危急の今、我は大道にこそ目を向けるべきである。そして大道に照らせば、尚書・高蓋は壮挙をなした、と言わねばならぬ」
 いささか控えめではあったが、おお、と声が上がった。
 我ながら、白々しいことを言っていると思う。
 ――高蓋が、慕容泓を殺した。
 独断ではない。慕容沖が後ろ盾となることを確約したからこその行いである。一つには、このまま慕容泓を旗頭として据えていたままでは、兄に恨みを懐く者が糾合し兼ねぬ、と懼れたがゆえ。そしていま一つとしては、
「燕帝推戴の日まで、あと僅かぞ。我先にと燕室を裏切った慕容垂であるが、氐賊どもを打ち払うに当たり、その武は得難きものである。なれど、忘恩の賊と俱に天を戴くは有り得ぬと心せよ」
 慕容垂。
 あの男と轡を並べるなど、あってはならぬ事だ。しかし兄の指揮の下で闘えば、否応なく従わねばならぬ時も来るだろう――無論、そこを表立って口になどするつもりはないが。
 ざわめきからは、戸惑いと賛意が相半ば、そこに幾分の反感、が伺えた。無理なからぬことだ、とは思う。例え裏切り者の汚名を負っているとは言え、それでも叔父が慕容に於ける傑出した武を誇るのは誰もが認めるところである。驍勇の号令の元、敵陣を破砕できれば、それはさぞかし尊き武勲となるだろう。
 無論、士卒らにはあずかり知らぬことである。驍勇故に、叔父が常に猜疑の目に曝され続けているのだ、とは。
 会堂の士卒らに向け、大きく号令を掛ける。
「刻一刻と、期は迫っている。各自、持ち場に戻り、出陣に備えよ」
 後事を諸将に託し、慕容沖は韓延と共に自室へと戻った。去まし日に兄、慕容泓が詰めていた部屋だ。手狭で、飾り気がないのは変わらぬ。しかし今や、その室内は大きな地図と、多くの紙束に埋もれている。
「新たな報せは?」
「は、こちらに」
 韓延が恭しく紙束を差し出した。受け取るなり、内容を確認しては地図の上に紙を配する。異同を諮り、前後を整え、従前の紙片とも見比べ、明らかに検討に値せぬ報は省く。また傍らの碁盤には、地図上の紙片から見出した燕秦両軍の動きを白黒の石にて描き上げる。
「李玄、垣黙、郭融之には厚く褒賞を。唐琰の報は当てにならぬ。処断せよ」
「畏まりました」
 慕容沖が挙げた名を韓延が書き留めると、即侍従に手渡した。受け取った侍従の顔が、微かに怯えに固まる。慕容沖も、韓延も、それを問い糺すことはない。ないが、「行け」と言いつけはする。慌ただしい拱手の後、侍従は駆け去った。
「碁盤より伺うに、秦は主上の誘いに乗ったようですな」
「読めるのか?」
「読めません。しかし、主上の打ち手が熱くなったことは」
「――そうか」
 碁盤から目を離すと、いちど天井を仰ぎ、嘆息した。「いかんな」つい、苦笑を漏らす。
「一挙一動に士卒の命が掛かる。冷静であらねばならぬのだが」
 韓延が、茶を出してきた。
 一息に飲み干す。眉間の熱もろとも、臓腑へと洗い流す。
「それにしても、不思議でなりません」
「何がだ」
「主上の差配を拝見するまで、戦とは武が全てを決める物と思っておりました」
 韓延の面持ちを見る。
 僅かに、熱に浮かされているようでもある。
「誤ってはおらぬ。戦とは武。偏に、いかに敵を殺せるかよ」
「しかし、主上はこの狭い部屋より、筆のみにて多くの勝利を得ておられる。そのようなお方が武と仰るのには、私めには、仙術か何かでも見せつけられているかのようです」
「おべっかは止せ。佞臣と見るぞ」
「お、おべっかなどと! 心底驚嘆しておるのです」
 焦りを含む、わずかに怒ったかのような抗弁。「良い、戯れよ」片手で韓延を制すると、もう片方の手では碁石を弄んだ。
「では、韓延。将がなぜ碁を好むかはわかるか?」
「戦が、知と知のせめぎ合いであるから、でしょうか?」
「それもある。が、いま少しわかりやすい話がある」
 碁盤、中央よりやや左上。他の石から外れ、やや孤立した白の石の塊があった。慕容沖が、その周囲に黒の石を置く。
「周せば即ち、殺。これが揺るぎのない事実だからよ」
 黒で囲った白石を取り除く。韓延が取り憑かれたように、慕容沖の所作を見つめていた。
 韓延には、救われる。ふとそう思う。
 戦の差配は、およそ油断を許されぬ。僅かにでも気を緩めれば、忽ち対手の逆撃を受けてもおかしくはない。士卒と共に目前の勝利に酔い、気付けば一敗地に塗れた、などとは幾らでも故事に見出せる顛末である。
 帥に、戦勝を喜ぶ暇は与えられぬ。故にこそ、片腕の如く恃みとする近習よりの崇敬は、この上なき慰みである。
「なれど、実際の戦は碁盤の如く天より見下ろす訳にも行かぬ。故にこそ、韓延。卿が商いにて育んできた諜報網が、我が戦を支えてくれているのだ。士卒らがその武を、万全に目の前の敵に振るえるように、な」
 出し抜けのねぎらいに、しばし韓延は何を言われたのか把握できずにいたようだった。そして「ご、誤魔化されませんぞ」とふて腐れる。
 そこへ、急使が飛び込んできた。韓延は文を受け取ると括目し、しばし文と碁盤とをかわるがわるに見た。
「――ときに主上、今殺した辺りは、鄭西の地、にございますか?」
 韓延の面持ちに、ほう、と鼻を鳴らす。
「苻暉か」
 摘んだ白の石を、弾く。
 韓延より手渡された文には、まさしく「鄭西にて苻暉の軍を撃破。苻暉を捕え、斬首した」の報せがあった。信じられぬものを見た、とばかりの韓延を横目に、慕容沖は愁息を漏らす。
「試みの仕掛けだったのだがな。しかし、これでよくわかった」
 報せを打ち捨てると、慕容沖は剣を持ち、席を立つ。
「討って出るぞ。もはや今の苻堅は、在りし日に中原に覇を唱えた大帥ではない。己が手勢も纏め上げ切れぬ愚将となり果てたようだ」
 あるいは、もとより王猛なしではこの程度か。
 出所の分からぬ苛立ちが、慕容沖をかすめた。
 
 満を持して燕軍本隊が華陰を発ち、長安に向け進撃すると、その途上にはもはや妨害らしき妨害もなかった。目ぼしい秦の諸将はあらかじめ各所におびき寄せられ隔離、あるいは撃破し尽くされていたのである。始め慕容冲に疑いの目を向けていた諸将も、いざその手腕を目の当たりとしては、もはや心服するより他なかった。
 慕容沖の進軍を受け、苻堅は配下の将、苻琳を派兵。覇上にて燕軍を防がさしめんと画策したが、もはや相次ぐ戦勝にて勢いを得た燕軍の敵ではなかった。
 さしたる危地にも巡り逢わぬまま、慕容沖は、長安へと辿り着くのであった。


 〇


 漢の高祖・劉邦が都として定めてより、数百年もの間都として栄えた城、長安。かつては捕らわれの身として押し込まれていた城であったが、いざ攻め込んでみれば、なるほど、その威容は育まれた時の重みに相応しいものだ、と思う。
「よくぞ顔を出せたものだ、孺子よ」
 長安城を囲む、城壁の上。
 苻堅がいた。往時より、幾分やつれているだろうか。
 衆軍を背に、単騎慕容沖は進み出る。
「秦王。汝はもはや我が籠中にある。速やかに投降せよ」
 胸中に種々の思いが渦巻く。その多くは恨みである。だが、いまの慕容沖は燕人らを率いる身の上である。在りし日の恨みを唯々と表に出すわけにもゆかぬ。ようやく目の当たりとした仇を前にし、情の赴くまま躍りかかれぬことの、何と歯痒きことか。
 燕軍は、既に長安城周辺に展開を進めている。城周りを燕軍が埋め尽くし、あとは城を攻め落とすのみ、と言う情勢である。
 いつまでも長安攻めに拘ってはおれぬ。敵は苻堅のみではない。長安を挟み、西の向こうには姚萇が十万余の軍を率いてその勢力を伸長させている。呂光や苻堅の支将らに妨げられ、長安への侵攻こそ始まってはおらぬが、慕容沖らが長安を抜けば、姚萇こそが次なる大敵となるのは疑いがない。
 また、南の大国である晋もその軍容を整えつつあると聞く。後背の慕容垂とて、いつまでも鄴攻めをしているわけでもあるまい。東北に跋扈する鮮卑拓跋部も見過ごせぬ存在である。四海を見渡して、どの勢と戦うか、どの勢と盟を結ぶかを検討せねばならぬ。その際に長安を得ているか否かで、まるで話が変わってくる。
「あの孺子が、見違えるほどに強くなったものよ。故にこそ、惜しきよな。大人しく牛や羊と戯れてさえおれば良かったものを、おさおさ死にに赴きおるとは」
 後背にて、将兵らが気色ばんだのを感じた。
 成る程、と、場違いなことと知りながらも笑いそうになった。衰えたりと言えど、往年の覇王。衆人を挑発する手腕は、未だ健在のようだ。
 大きく息を吸う。過日の覇者の足掻きは見るに堪えぬ醜さを呈していた。だが、受け容れよう。それが次なる世の王の責務である。
「我ら慕容、奴婢であるに飽いたのよ。なれば氐王、汝もそろそろ王位に飽いておろう。安んぜよ、我らが汝に代わりて王となり、四海を平安に帰せしめん」
 大将同士の対話。言うなれば、いざ干戈を交えるにあたっての挨拶のようなものである。より機転に秀でた返しを為した大将を緒戦の勝者と見做す、儀式のごときやり取りである。故にこそ慕容沖は胸中の煩悶を押し殺して対応し得たのだが、
「言いよったか、鮮卑の小倅!」
 目の当たりとした苻堅の激昂は、慕容沖に取り、想定の外の運びであった。
「よくも余の寵愛、斯くも軽んじてくれたものよ!」
 寸刻、言葉を失いかけた。押さえつけていたはずの黒き情念がせり出してくる。
 寵愛? よくも言ったものだ。あの男は、おれを貫いた日々によって、おれからの崇敬を得たつもりでもいたのか?
 だが、その思いは懸命に呑み込む。
 これは今、表に出してはならぬものだ。
「はて、寵愛とは? 汝よりは虐げられた覚えしかないものでな」
 努めて、傲然と返す。
 問答はそこまでだった。暫しの睨み合いののち、苻堅が城壁の向こうへと姿を消す。慕容沖の前に大楯を構えた騎馬兵が二人駆け寄り、正面を固めた。間もなく楯に矢の当たる音が響いた。
「諸将、各所へと展開せよ! 急いては事を仕損じる、長安城をめぐる天の時、地の利、人の情! つぶさに調べ上げよ! 一点を落とせさえすれば良い! 些末な事でも我の元に持ち寄るように!」
 応、と声が上がる。
 慕容冲が陣容の奥に下がると、弩たちは慕容冲を追うことを諦める。代わりに狙うのは、前線に姿を現した梯子兵、梯子兵の周囲を囲む楯兵。一箇所、二箇所ではない。四方から、時を同じくし、数重もの隊でもって攻め立てるのである。早くも斃れる者もある。だが、弩では全てを止められはしない。
 城攻めが始まったのを見届けると、慕容沖は各方面の軍を周遊、鼓舞して回った。そして長安城の北西にある離宮、阿房宮へと向かう。長安入りに先んじ、高蓋を派兵、本陣として用いるために占拠させていたのである。
 離宮とは言え、その大きさ、壮麗さは、これまで詰めていた華陰県令府とはまるで比べものにならぬ。いや、鄴の地にあった燕の宮城と見比べてすら劣らぬものだ。
 そして、その周囲には、青々とした竹林があった。
「――韓延。見事なものだな」
 自分でも、発した声が凍てついていたのがよく分かった。
 韓延の顔にも、まざまざと怯えの色が走る。
 望もうとも、望むまいとも、鳳皇、と呼ばれ続けてきたのだ。伝説の霊鳥、鳳凰がどのような鳥であるかを知らぬままでおれる筈もない。
 その葉茎の茂り方を見るに、植えられてより十年余、と言ったところか。また慕容沖が平陽に遷されてより、今日この日までが、およそ十年余。只の巡り合わせと捨て置くには、いささか辻褄が揃い過ぎている。
「得心が行ったぞ。苻堅、あの氐賊、おれが奴のことを心底慕っていると思い込んでいたようだな」
 歪な笑みを押し殺せる気がしなかった。苻堅の行いは、慕容沖を嘲笑わんとしたからこその仕打ちである、と思っていた。だが、あの男にとっては、あらゆる行いが、その寵愛のゆえであったのだ。
 阿房に設えられた自室にて、慕容沖は大いに嘔吐した。その有様を見た近習、宦官は、悉く殺した。


 〇


 翌日。
 慕容沖の元に、苻堅よりの遣いが参じた。さながら棺がごとき大箱を従え、既にして慕容沖に赦しを求むかの如く、震えている。
「あらゆる不遜は秦の僣王に帰すべき議である。身命の危うきを憚らず、ただ僣王の木霊として囀辞を述べよ」
 すがるような目で慕容沖を見た後、使者は覚束ぬ手で懐より書を取り出した。裏返った声で、読み上げ始める。
「古よりの習いに従い、此処に詔す。いま汝は不遜にも軍容を整え、その矛鋒を余に突き付けている。なぜ斯くも徒労に過ぎぬ行いを為したのか。以前汝が身につけていたものと同じ絹の衣を下賜す。これは恩賜である。身に纏い、いま一度余の元へ参内せよ。その変心、悔いるのであれば、再び寵せぬでもない」
 失笑の混じったざわつきが起こる。だがそれは、使者が箱を開けた途端に、すべて封じ込められた。
 広がる、血の匂い。
 確かに、絹の衣はあった。また煌びやかな宝飾も共に収められている。
 ――その上には、二つの生首があった。
「兄上――姉上」
 慕容冲が、覚えず、呼びかけた。
 その呼びかけが、堰を切った。
 瞬く間に激昂の怒号、悲憤の慟哭が会堂に充溢する。
 苦悶と驚愕、絶望に彩られた慕容暐の、慕容无考の顔。
 絢爛に飾り立てられておきながら、滴る血も満足に抜けぬまま箱の中に仕舞われたのが分かった。
 ――鳳皇、鳳皇。
 在りし日の両名の面影が掠める。精気を、血色を。慕容沖へと向けてきた、その笑みを。思い起こしうる、あらゆるものを奪い去られ、二人が、ただ、そこにあった。
 怒り狂った者ものが、使者に躍り掛からんとする。
 だが、
「控えよ!」
 慕容沖が一喝する。
 その鋭さに誰もが動きを止め、慕容冲に眼を向けた。
 なぜ止めるのか。斯様な無道を働く獣を引き裂くことに、なんの咎がある。――そう、その眼が語っている。
「いま一度言う。控えよ。無道はこの者になく、苻堅にある。此処で小人ひとりを引き裂いたところで何になる。むしろ苻堅めを喜ばせることに気付かぬか」
 誰もが、互いの顔を見合う。
 筋の通る話ではない。だが、最も怒りを示すべき者に言われてしまえばどうしようもない。或いは不承不承といった態で、或いは使者に面罵を投げた後、銘々の立ち位置へと戻っていった。
 会堂のざわつきを、沈黙にて鎮める。
 改めて使者を見る。へたり込み、失禁している。
 ひとり恐惶のただ中にいた筈である。もとより殺されに来たようなものだ。
 ならばこそ、この者を生かし、苻堅に送り返さねばならぬ。
「使者よ。斯く伝えよ。皇太弟・慕容沖より、僭王・苻堅に令す。卿の首を、我が元に献じよ。我が心は天下にあり。今更一着の小恵になぞ心動かされようか。最早天命は苻氏の元にあらず。なればこそ、我ら慕容は卿の首のみを以て、苻氏を受け入れよう。応ぜずば、卿の愛したこの長安が血に染まると知れ、と」
 歓声が上がった。
 配下らが、口々に慕容沖への讃辞を述べる。悪辣なる苻堅断乎として討つべし、の声も多く上がる。大燕の唱和が起こる。
 思い描いたとおりの顛末を呼び起こしたことに幾分の倦みを覚えつつも、小さく、安堵のため息を漏らした。
 泰然としている、そう振る舞うのに多くの精力をつぎ込まねばならなかった。動揺が激しい。兄帝の死に対してでなく、姉の死に対してであることにも気付いてしまう。それがまた、慕容沖をあたら掻き乱す。
 ――故に、何もできなかった。
 大いに沸く燕臣らの中、一人韓延が顔を強ばらせていたことに対しては。

 阿房の屋上に吹く夜風。やや、冷たい。
 箇所箇所に設えられるかがり火は、蝋燭にこそ比べものにはならぬものの、夜空を照らし出すには、いささか心許ない。
「――人払いを命じていたはずなのだがな」
 また闇の奥、白装束にて土下座する者の姿も満足に照らし出せぬ。目を凝らすと、傍らには宮衣が折り目正しく畳まれているのが分かった。
「皇太弟陛下、お待ち致しておりました。まずはそのご心痛余りあること、察し申し上げます」
「その装い、自死でも披露してくれるのか? 尚書令」
「ご所望とあらば、一度と言わず、百度でも」
 平伏のまま、ぶれぬ硬質な声も隠さずに、高蓋が口上を述べた。
 高などという漢族がごとき姓こそ名乗るが、歴とした鮮卑の生まれである。養父たる高氏に気に入られ養子として迎え入れられた、と言うことになっているが、漢族と鮮卑とを取り持つにあたっては漢族姓を持っていたほうが都合がいい、と半ば強引に高氏に養子入りを迫った来歴がある。以来慕容沖が実務能力に長けた漢族の官僚を取り立てるに当たっては、高蓋の推挙に大きく依っている。
 また高蓋は、慕容再興のためには手立てを選ばぬ、と常日頃公言していた。故にこそ慕容沖は、それが不義の誹りを受ける懼れがあると知りながらも、高蓋が示した慕容泓排除の企てに乗った。
「それで? 兄殺しに続き、おれは如何なる外道働きをすれば良いのかな」
 精一杯の皮肉である。だが、高蓋に揺らぐ様子はない。
 喘ぎそうになる。この男ほど強ければ、いかほどの懊悩から解き放たれようか。
「不逞を弁えず、奏上申し上げます。太上皇ご薨去の時勢下、皇太弟陛下に於かれましては、一刻も速き登極こそが妙手である、と愚考致します」
 登極。
 さも決まり切った手続きであるが如く、言ってくれるものだ。
 燕帝が死んだ。燕国を承くべく任ぜられた「前」皇太弟は、臣下の不興を買い殺されている。残された前皇太弟の弟に、帝位が示されるは道理である。それは慕容沖自身、重々承知している。
 承知は、しているのだが。
「太上皇の遺霊すら碌に祀れぬ流遇に極位を名乗らせようてか。礼も弁えぬ者と笑われような」
「危急の際に御座います。臣めの存じ上げる皇太弟陛下は、社稷の安寧をこそ五徳の上にお示しになるお方であった、と思うておりましたが」
 五徳――仁義礼知信。人として修めるべき徳目。その全てを擲て、と高蓋は迫ってきているのだ。成る程、不義不忠きわまりなき行いである。しかし今は、その振る舞いが、この上なく心地好い。
「顔が見えぬでは、話しづろうて叶わぬ。近う寄れ」
「は」
 ようやく、高蓋を闇の奥より引きずり出す。現れた偉丈夫を前にし、慕容沖も座り込む。わずかにではあったが、高蓋の目に驚きが走った。
「名分は、如何に付ける?」
「天文を仰ぐに、北の果て、北辰には常に帝の星が坐ましまする。天に帝の在らぬはなく、なれば地に帝の不在も有り得ぬこと。我らが何処へ赴こうとも帝星は北辰に在り、また天帝を守る星々、紫微垣も、変わらず帝星を周しております。この阿房を陛下の紫微宮と見るに、何の不思議がありましょうや」
 高蓋の言葉に誘われるように、天を仰いだ。
 漢人どもの言う天文にはさほど詳しくない。故地に伝え継がれていた星座のありようと余りに違うため、覚えようという気にもなれぬからだ。だが、天帝と呼ばれる星ならば分かる。常に北に在り、進むべき先を示してくれる星である。
 それにしても、紫微宮とは。
 慕容沖が苻堅の寵童であったことは誰もが知るところである。二羽のツバメの戯歌とて、よもや高蓋が知らぬとも思えぬ。
 ただし宮中で、敢えてそこに触れる者はない。慕容沖の瑕であることは疑いがないからだ。それをよもや、このような形で突き付けてくるとは。
「高蓋。余も卿も、碌な死に方はせぬであろうな」
「――地の果てまで、お供致しまする」
 それ以上は、もはや語らなかった。

 戦時中、儀礼式辞を知悉する者がいない、その他諸事情より慕容沖戴冠の儀は略式とならざるを得なかった。
 それでも、士卒らの歓喜は小さからぬものであった。彼らが従ってきたのは慕容沖であり、燕そのものではない。それが戴冠の儀を経、一つとなった。即ち、士卒らのこれまでの戦い、これからの戦いは大儀を得たのである。
 その後催された宴は、太上皇の服喪のさなかという名目があるため、盛大には執り行われなかった。とは言え、多くの者の慰みにはなったようでもあった。

 ――なおその宴に、韓延の姿はなかった。


 〇


 長安城、及び周辺の群落への攻撃を始めてから三ヶ月余。突如慕容沖の元へ、苻堅の死が報じられた。長安の西、姚萇の支配下にある五将山にて殺された、とのことである。
 寝耳に水の急報であった。韓延に命じ、
真偽を確かめさせるも、幾分の錯綜こそすれ、恐らく虚報ではあるまい、と言うのが結論であった。そこへ姚萇が苻堅より禅譲を受けたと喧伝、秦天王を自称。詳細の見えぬまま、ただ苻堅の死という結果のみを受け容れるより他なくなっていた。
「いつぞや、西壁で決死隊の一団を取り逃がしたことが御座いましたな。あの時に紛れていたのでしょうか」
「過ぎたことを論じても仕方あるまい。苻堅がおらぬでは、もはや残党に城を守る大義もあるまい。四方より苻堅の死を城内に呼び掛けよ」
 慕容沖は玉座に倒れ込んだ。
 糸が切れた、と言った方が正しいのやも知れぬ。あらゆる策は苻堅健在がその前提であった。その全てが白紙に帰した。無論、新たに検討すべきは、秦臣らの慰撫ともなるのであろうが。
 慕容沖の見立て通り、間もなく長安城に白旗が揚がり、城門が開け放たれた。
 百官を率いて入城すれば、まずはその濃厚な屍臭が鼻を衝く。三ヶ月の籠城、外部よりの補給は無し。攻城の折、討たれた燕兵らの死体の数が合わなかったという話も聞く。もはや食える物など選んでなどおれぬ、そのような有様であったのだろう。
 城に残されていたのは苻堅の息子、苻宏であった。拱手を示す枯れた指は、わずかに震えている。
 外よりの攻めと、死を厭う内での争いと。慕容沖が検分した長安は、さながら死者の国の如くである。
 慕容沖は未央宮、謁見の間に腰を落ち着けると、秦臣らに炊き出しを与えるよう命じた。併せて荒れ果てた城内の検分も進めた。城内に残されていた財貨は、悉く謁見の間に集められた。
 人臣、財貨。あらゆる城内にまつわる内容を纏め上げ、韓延が帳簿として持ち寄る。
「長安城獲得、誠にお目出度う御座います」
「目出度きものかよ。これより先、やらねばならぬことが多すぎる」
 帳簿を受け取ると、内容に目を通す。
 いや、目は滑る。名が、数が、摘要が、意味持てるものとして結びつかぬのだ。
 内には城内の整備、発布すべき詔勅の大綱、燕臣らの論功行賞。外には残党の討伐、各勢力への牽制、友誼の検討。どれもが疎かに出来ぬ事項である。にも拘わらず、凡てが慕容沖の側を抜け落ちてゆく。
「時に、韓延。幾分痩せたようだが、体調は戻ったのか」
 一旦、帳簿を脇に置く。唐突に呼び掛けられたからか、しばしの間があった。ややあって、韓延がぎこちない笑顔を浮かべ、拱手した。
「陛下ご戴冠の儀の折に倒れるなど、申し開きの程も御座いませぬ。愚臣めの不義にも拘わらずのご聖慮、恐縮の至りに御座います。お陰様にて余分な肉も取れ、寧ろ以前よりも身が軽くなりまして御座います」
 おや、と思う。
 韓延の言葉遣いが余所余所しい。寵童の頃よりの付き合い、その年月は十年では効かぬ。親を失って久しい慕容沖にとり、もはや韓延は親にも近しき存在であった、筈である。
 その韓延が、どこか、遠い。
「そうか。くれぐれも、無理だけはせぬようにな」
「何を仰います、主上が忙しければ、いきおい私も忙しくなりましょうに」
 それもそうだな、小さく笑い、杞憂か、と胸を撫で下ろした。
 韓延とともに、優先的に処すべき事案を諮り、命を下す。その中に、慕容垂の署名が示された親書が一通紛れていた。
「韓延、これは?」
「内外の取り纏めを優先すべきと思い、後回しと致しました」
「そうか。気を回させたな」
 蝋で固めた封を割り、開く。はじめ目に留まったのは、囲碁の棋譜、であった。左辺に白石が、一つ。対する黒石は、中央より右辺にかけて、六つ。何れもが定石より外れた配置となっていた。慕容垂よりの言葉は、棋譜の後ろに続いていた。曰く、

 長安に於ける戦ぶりを聞いた。鳳皇、其方が帥として長じ得たこと、誠に誇らしく思う。折に触れ、また其方と鄴にて碁を打ちたいものだ。敢えて恥を晒さば、いまの其方に互するには、少なくとも六目は要するのでは無いか、と思えてならぬ。

 書を、取り落としそうになる。
 棋譜と、僅かな文言。
 ただそれだけが、慕容沖の倦怠を大いに躙る。
「韓延。速やかに軍を編め。殊に東軍を厚くせよ」
「は、――親書では、なかったのですか?」
 書を韓延に手渡した。一通り読み上げ、しかしそれでもなお、韓延は得心が行かぬ、と言う風である。
「譜面に、違和感は覚えぬか?」
「既にして、白の石が置かれている事でしょうか」
「そう。六目碁、それは良い。だが、何故おれの初手まで慕容垂に示されねばならぬ? 加えて、斯くも辺方。これでは元より勝負にもならぬ。なれば、この棋譜に意図を忍ばせた、と見做すが妥当であろう。さすれば左辺の白が長安、右辺の黒が鄴と解し得る」
 韓延の顔色が変わる。地図を取り寄せ、譜面と照らし合わせる。右辺の鄴より左にさかのぼれば、河内、洛陽、虎牢、河東、弘農。いずれも鄴より長安を攻めるにあたり、要地と呼ばれる街である。
「――まさか。速過ぎます」
「慕容垂の戦ぶりは、卿もよく聞いておろう。あの者と相対すのであれば、こちらのまさかを一つ、二つは軽く上回ってくるものと思わねばならぬ。此度の書については、叔父上なりの温情、なのやも知れぬ」
 思わず、久方ぶりに叔父、と呼んだ。
 幼少のみぎり、まだ、何も知らなかった頃。強く、義に堅き叔父を見上げては憧れた。慕容の英雄と共にあることは、ただそれだけで誇らしかった。しかし父、恪叔父、次々に後ろ盾を失い、徐々にその居場所を削がれ。宮中ですら、慕容垂に味方する者は燕室に対する叛意を抱くもの、とすら思われ兼ねぬ有様であった。
 仕方がない、仕方がないのだ。
 幾度、そう己の心に言い聞かせて来たことであろう。今になり、ようやく気付く。偽り続けてきた。孤立する叔父に対し、何もできなかった己が無力を、そうと気付かぬうちに、忌避の念として糊塗し続けて来た。
 出し抜けに興った赤心が、慕容冲を揺さぶる。
 慕容垂の大きさを、改めて思い起こす。どうすれば勝てる。いや、そもそも抗い得るのか。ここまでの叔父は、それでも慕容冲を立てるかのごとく振る舞ってきた。だがこの書からは、慕容冲との決別の意図を、強く感じる。
「もはや一刻の猶予も許されぬ。あらゆる手立てを尽くし、慕容垂を殲滅せねばならぬ」
 そう告げながら、しかし慕容沖は、己の頭が霞がかっていくのを感じた。 
 何も考えられぬ。何をすれば良い。勝てばよい。では、どのように。何を整え、何を示し、どう動く。よしんば慕容垂を討ち果たし得たとして、その先に、何を見る。進むべき先が、まるで見えぬ。
 故に、気付く。
 慕容冲にとり、苻堅が、全てであった。

 苻堅を辱めたかった。
 苻堅を殺したかった。
 苻堅の屍を、凌虐したかった。
 苻堅を、殺し尽くしたかった。
 だがもはや、その全てが叶わぬ。
「不遜の徒なぞ、大義の旗の下、討ち果たしましょう」
 韓延が深々と、深々と拱手する。
 ――韓延。おれの目を見てはくれなんだな。
 その言葉は、飲み込んだ。

 十日も経たぬ内、城内に急報が届いた。
 曰く、慕容垂が燕の皇帝を僭称した、とのことであった。


 〇


「ああっ、陛下! 激しい、激しすぎます! 壊れてしまいます!」
 柳眉を寄せ、頬を朱に染め豊かな乳房を激しく揺らし、叫ぶ妓女。慕容沖は一切の斟酌も示さず、それどころか、更にその腰遣いを盛んとする。
 九浅一深もあったものではない。闇雲に、妓女の臓腑すべてをえぐり出さんとばかりに、突き込む。
 龍とは、よくも言ったものだ。
 苻堅を思い出せば、僅かに菊門がうずく。
 慕容垂よりの文を得てより、慕容沖の内に数多の声が響くようになった。猟遊の折に射抜いた、逃げ惑う漢人の。未央宮にてすり寄ってきた、白面の宦官の。戦場にて切り伏せた匈奴の、氐羌の。
 兄二人、慕容暐も、慕容泓もいた。姉もだ。口々に、何かを慕容沖に訴える。その何一つとして分からぬ。意味もまともに取れぬ残響として、ただ慕容沖を苛む。
 ああ、ああとうめく妓女。精を解き放てば、俄に声が止む。ただし、僅かな暇に過ぎぬ。吐息一つもすれば、また声は勢いを取り戻す

 寝所には、他にも幾人かの妓女がいる。皆全身に汗し、肩で息をしている。一人を引きはがすと、別の一人の尻を掴んだ。
「腰」
 端的な言いつけに、のろのろと尻が持ち上がる。菊門と女陰、共にむき出しとなる。慕容沖はいちど女陰に、既に逞しきを取り戻しつつある陰茎をあてがい、だが、ふといびつなえみをうかべた。
「たまには、趣向を変えるのもよかろうな」
 びくり、と妓女の尻が震えた。「お、お許し下さいませ」とか細い哀願が洩れる。聞こえぬ。菊門に、その杭を打ち込んだ。ひと突きもすれば、慕容沖の陰茎が初めての闖入者であったのだと分かった。
「い、いぎ、ひいっ……!」
 女陰とは比べものにならぬ締め付けである。尻から太腿、腰にかけて強ばっていくのが分かる。そこを、強引に押し入る。他の妓女らが怯えを顔に示していた。陰茎が、更に硬くなった。声は遠のいた。
 妓女らに腰を幾度となしに叩き付け、やがて慕容沖は獣のごとき声を上げる。解き放てるだけ解き放ち、力尽きた。
 一人の妓女が酒を持ち寄る。僅かに開いた慕容沖の口から流し込むと、喉を、臓腑を、心地好い熱が満たした。
 と、そこへ
「お楽しみ中、失礼致します」
 韓延の声。訝る間もない。妓女の一人が鍵を外し、扉を開けた。拱手の韓延、その後ろには、兵士が、二人。
「な――」
 言えたのは、そこまでだった。舌がもつれる。四肢が痺れ、まともに力が入らない。
「信頼できる筋より取り寄せた痺れ薬です。よく効きますでしょう」
「あ――が?」
 韓延が顎で指示すると、宦官、妓女らが衣服を抱え、慌ただしく退出していった。これから何が起こるか、などとは、考えるだけ詮無きことだ。
 兵ら二人は慕容沖の脇に進む。左右の腕をそれぞれが抱え、引き上げる。韓延の顔の高さにまで、持ち上げられた。
「王猛様が身罷られる折、密命を受けておりました。陛下と、慕容垂を離間せよ、と。それさえ果たされれば、後は私の思うように振る舞って構わぬ、と」
 王猛。出し抜けに聞かされた名に、身体さえ言うことが聞けば、大いに笑いたいところだった。だが、それも叶わぬ。なるほど、あの者の掌中にては、匂わぬ事をこそ危ぶむべきであったか。
「淝水以後、戦乱深まる華北にて、陛下は確かに英主にあらせられた。華陰にて陛下の手腕に抱いた崇敬の念は、まこと嘘偽らざるものに御座いました」
 韓延の顔から、阿りの仮面が外れる。
 むき出しとなる、憤怒の形相。
「――故にこそ、慕容沖! 尚のこと、許せぬのだ! よくぞ我が愛する長安を、蛮夷の土足にて踏み躙りおってくれた!」
 懐から取り出された短刀は、迷わず慕容沖の胸にしまわれた。余りの痛みのなさに、刺された、と暫し気付けぬほどだった。喉元にせり上がるものを感じた。とどめ得ることは叶わぬ。吐き出す。
 韓延が、血に染まった。
 ――ああ。韓延。
 卿は、まことの忠臣であるな。
 兵らが手を離したようだ。視界が転じ、韓延の代わりに天井が見える。
 苻堅を喪い、己が為すべき事を、凡て見失った。目先の快楽を求め、溺れ、しかし声らが止むことは無い。かくなる上は、と幾度思ったことだろう。だが、許されることは無かった。
 再び、韓延の顔が現れる。何かを叫んでいる。だが、最早聞き取れぬ。
 ――羨ましいぞ、韓延。
 卿は、怨敵を、自らの手で討ち果たせるのだな。
 韓延の志を果たせるよう、せめて無念の意を顔に浮かべようとした。
 しかし、果たせなかった。

 その心地は、知らぬでもない。
 兄弟らと共に川に遊び、流れのまにまにたゆたっていたときの心地に近い。
 向かう先は、何処であろうか。
 いずれにせよ、姉に会うことは叶うまい。苻堅とは巡り逢う気がせぬでも無い。

 奴めと出食わしたら、何をしてくれようか。
 後背より刺し貫いてくれるも、また一興か――

 ――…………


 〇


 斯くして鳳皇、紫微垣より墜つ。

 主を失った燕は迷走の末、慕容垂に吸収された。しかし、慕容垂も間もなく病死。その領土はたちまち内乱によって瓦解し、新興国・北魏と、晋の支配下となった。
 やがて北魏は華北を統一。一方の晋は軍部よりの簒奪を受け、宋と名を変えた。この二強の成立を以て五胡十六国時代は終焉を迎え、南北朝時代へと移行する。

 五胡十六国時代の事跡を追う典拠としては、特に二種の史書が著名である。一つは当代にて強勢を誇った、晋以外の十六国のあらましを国ごとに追う、十六国春秋。一つは晋を中心とし、当代に盛名を得た人物の事跡を綴る、晋書。
 慕容沖が率いた燕は、十六国に含まれていない。また晋書にも、かれの独立した伝は無い。他者の伝中に、その名が散見されるのみである。

 当時の歌に言う。

 鳳皇、鳳皇。なぜ故郷へ飛び去らなかったのか。
 なにゆえ座して、滅ぶことを選んだのか。


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